LOGIN妊婦健診の日。
本来なら、今日は広海と一緒に病院へ来る約束だった。
「子どもの健診なんだから当たり前だろ」
そう言って次回の予約をきた日から予定を空けてくれていた日だ。
広海から昨日連絡が来たときは【仕事だから行けない】と言ってくると思った。
【どうしても外せない仕事が入った。でも病院には行く。待っていてくれ】
そのメッセージを見たとき、実里は少しだけ驚いた。
(来てくれるとは思わなかった)
驚いたけれど、嬉しかった。
赤ちゃんのことは、ちゃんと大切に思ってくれている。
そう思うと安心する。
(それなら……)
胸の奥が少しだけ痛んだ。
(やっぱり私が何かしたのかな)
赤ちゃんには会いたい。
でも、自分とは一緒にいたくない。
そんな考えが浮かんでしまい、実里は慌てて首を振った。
「考えすぎ」
そう呟いて、お腹を優しく撫でる。
「パパも楽しみにしてるみたい」
自分に言い聞かせるように笑った。
「どのくらい大きくなったかな?」
◇◇◇
病院へ着くと、広海の姿はまだなかった。
仕事がまだ終わらないのか。
受付を済ませ、待合室で一人座る。
時計を見る。
約束の時間を少し過ぎても来ない。
受付で名前を呼ばれた。
(間に合わなかったか)
仕事だから仕方がない。
そう思ったとき。
「悪い、遅くなった」
低い声が聞こえた。
顔を上げると、スーツ姿の広海が立っていた。
急いできたのか。
息が上がっている。
「丁度いいタイミングだよ」
実里の言葉に広海はほっと笑う。
「よかった」
ほんの少しだけ。
昔の広海へ戻った気がした。
.
二人で診察室へ入る。
椅子へ座ると担当医がカルテを確認しながら言った。
「今日は採血があります」
「え?」
実里は思わず聞き返した。
「採血?」
妊婦の健診内容は事前にもらっている。
血液検査の予定なんてなかったはずだ。
「その……必要になったので」
「必要って……」
言いにくそうな先生の様子に実里は不安になる。
「何か悪かったんですか?」
赤ちゃんに何かあったのだろうか。
それとも、自分の体に異常が見つかったのだろうか。
一気に不安が押し寄せる。
「実里、落ち着け」
広海の声に、隣を見る。
広海は驚く様子もなく、静かに座っていた。
「病院がやるって言うなら受ければいい」
あまりにも落ち着いている。
以前の広海なら違った。
——何かあったのか?
——赤ん坊は大丈夫なのか?
——実里は大丈夫なのか?
そうやって、自分より先に医師へ質問を浴びせていたはずだ。
なのに今日は、まるで他人事のように冷静だった。
「広海。一体どうしたの?」
気づけば声が震えていた。
「何が?」
そう言うくせに、視線をそらす。
何がか分かっている反応だ。
「最近ずっと変だよ」
広海は視線を合わせない。
「何もない。仕事が忙しいだけだ」
「でも……」
「とりあえず採血しろ」
命令するような低い声だった。
実里はハッと息を呑む。
広海もバツの悪そうな顔をした。
「病院に迷惑だから」
声は優しくなったが、やはり目は合わせない。
「東條さん……」
医師の声に実里は緊張を緩めた。
診察室の外には次の患者も待っている。
「……すみませんでした」
医師は目に見えて安堵した。
「それでは準備をしますので」
「はい……」
実里は小さく頷くしかなかった。
採血の準備がされ、実里は腕を差し出す。
針が刺さる。
少しだけ痛い。
その間も広海は何も話さなかった。
ただ、じっと実里が採血される様子を見つめている。
食い入るように。
何かを願うように。
(赤ちゃんのことはやっぱり心配なのね)
モヤモヤが晴れたわけではない。
でも、この顔を見たら許してしまった。
.
「それではエコーを見ましょうか」
予定通りの診察になったことに実里はホッとする。
「はい」
医師の声に実里が横になろうとしたとき。
「悪い」
広海は腕時計へ視線を落とす。
「仕事へ戻る」
「え……」
「また連絡する」
それだけ言い残し、広海は実里の返事を待つことなく診察室を出ていった。
扉が閉まる音が響く。
急に部屋が広く感じた。
「あの……」
戸惑う医師に診察を続けてほしいと言う。
画面には、小さな命が映し出された。
前よりもずっと大きくなっていた。
「順調ですね」
その一言だけで涙が出そうになる。
嬉しかった。
突然血液検査と言われた不安が溶けた。
隣を見た。
広海がさっきまでいた場所。
「写真をお渡ししますね」
「……お願いします」
澱のようにそこに沈むモヤモヤ。
それを解消する方法が分からない。
どこかぼんやりした気持ちのまま診察室を出て、
看護師からエコー写真を受け取る。
実里は写真の中の小さな命を見つめた。
「次は……」
小さく微笑む。
「次はパパも一緒に見てくれるかな」
写真の中の赤ちゃんへ語りかける。
返事はない。
それでも、そう信じたかった。
.
病院を出たあと。
実里はエコー写真をスマートフォンで撮影した。
【順調だって】
写真を添えて送信する。
すぐに既読がつく。
実里は立ち止まり、画面を見つめた。
五分。
十分。
三十分。
また返事は来なかった。
泣き落として向かった近所の病院。最新鋭の設備ではないが、アットホームな雰囲気で、実里は何も不満はなかった。実里の様子を見て、広海もようやく安心したのだろう。ネット上の病院の口コミを見て、「実里は大丈夫だ」と広海は祈るように繰り返していた。自分を愛しているのだからと思えば、泣き落としとか、しなくていい苦労をしたことは忘れられた。.診察中、広海は片時も離れなかった。医者がただの風邪だと言っても広海は納得せず、血液検査まで受けさせられたことは今も恨んでいる。(ただそれを上回る恨みや憎しみが今はあるだけ)付き添いの広海が慌て、医者と患者である実里が宥めるという、笑い話のような診察が終われば、次は薬だった。処方箋を睨みながら、熟読していた。分からないことがあれば、スマートフォンで調べる。検索結果が複数の答えを出せば、秘書に連絡し、薬について調べろと言った。いま病院にいるのではないか、と秘書に呆れられていた。薬局では薬剤師を質問攻めにした。帰宅してからも、処方された薬の名前を一つずつ確認していた。「広海って面倒くさいね」呆れて笑った実里に、広海は平然と答えた。「実里のことだから当然だろ」.(あのときは……)嬉しかった。大切にされているのだと思った。愛されているから、ここまで心配してくれるのだと。――愛しているから。(そう……)実里はゆっくりと目を開けた。胸の奥が痛んだ。今度も、きっと同じなのだ。広海は徹底して、全てを自分で管理しようとする。実里はよく知っている。ただ、今回は実里のためではないだけで。(愛する女のために)実里との子どもを確実に消す。そして実里と離婚して。
【お願いします】高橋誠に送った文章を、実里はじっと見つめた。【了解しました】その言葉に力が抜けた。安心しかけた。だが。【やってもらうことがあります】「やること……」嫌な予感がした。けれど、聞かなければ何も始まらない。【何ですか?】返事はすぐに来た。【まず、中絶手術を受ける病院を、私が指定する病院にしてください】実里は眉を寄せる。【身代わりと入れ替わるために必要です】続けて説明が届く。手術当日。実里は『病院からの迎えの者たち』に連れられて病院へ行く。【護衛はついてきてもいいですが、別の車で来てもらうようにしてください】【途中、パーキングエリアに二回寄ります】(二回……)【護衛は警戒し、車を降りたあなたに近づくでしょう。殺される、助けてと、大きな騒ぎを起こしてください】【なぜ?】【二回目で、護衛があなたに近づけなくするためです】【二回目で、待機していた身代わりの女性と入れ替わってもらいます】【身代わりの女性が乗車の際、護衛に別人だと気付かれたら厄介ですから】失敗ではなく、厄介と言った。つまり、最悪の場合でも別の手を考えているのだろう。但し、病院だけはどうにもならない。(病院は、なんとかするしかない)【入れ替わったあとは、そこにいる協力者の指示に従い、一緒に行動してください】【協力者?】【高橋友梨、私の娘です】(……娘?)【娘も大地さんに深く恩を感じ、あなたの状況を知り、協力すると本人が言い出しました】【台湾での生活のサポートも娘がします】ここで娘のことを聞き続けても意味はない。【分かりました】【何か準備するものはありますか?】【ありません。新しい身分も
【身代わりになる妊婦が、あなたの代わりに中絶手術を受けます】画面の文字を見つめたまま、実里は固まった。続けて文章が送られてきているが、それを読むことができない。ようやく指が動く。【そんなことは駄目です】送信。すぐに既読がつく。【その間に実里さんは名前を変え、日本を出ることができます】実里は首を横へ振った。高橋誠はここにいない。だから見えるはずがないのだが、何度も首を横へ振る。【駄目です】すぐに続ける。【私の子どもを助けるために、他の人の子どもを殺すなんてできません】送信した瞬間、涙がこぼれた。命に優劣などない。自分の子どもだけ助かればいいとは思えなかった。誰かの犠牲の上に立つことなど、実里は受け入れられなかった。しばらく返事は来なかった。やがて、高橋誠から短い文章が届く。【実里さん】父の葬儀で、少しだけ会話をした相手。顔は朧げ。声も覚えていない。だからなのか、父親に呼ばれた気がした。【あなたは知らないだけです】実里は眉をひそめた。知らない世界。教科書では教えてくれない世界を、父親は実里に見せた。美しいオーロラの輝きも。汚いスラムの闇も。新たな世界を知るたびに、世界を知った気になり。世界を知った気でいると、また父親が新しい世界を実里に見せた。――実里が知らないだけさ。そう言って。【身代わりを依頼するのは、望まぬ妊娠をした女性です】【堕胎する手段もなく、産むしかない女性です】画面を見つめる。【そういう女性は、少なくありません】【私は何人も見てきました】【死産とするため、自ら階段から落ちる女性もいます】胸が締めつけられた。
三日目の朝。実里は部屋から一歩も出なかった。「奥様、お加減はいかがですか?」扉の向こうから使用人の声が聞こえる。声が震えている。この二日間の行動のせいか、実里は使用人たちに怖がられていた。「少し気分が悪いの」「でしたら……」「例の看護師も薬もいらないわ。眠りたいの。誰も部屋に近づかないで頂戴」そう返すと、使用人はそれ以上踏み込んではこなかった。気分が悪いことは、嘘ではない。胸はずっと重く、吐き気もあった。落ち着かなかった。なぜなら今日は、高橋誠から連絡が来る日だ。いつも通りを演じることなど、とてもできそうになかった。ベッドへ腰掛けたまま、実里はスマートフォンを見つめる。時計を見る。また画面を見る。メールの受信箱を更新する。何も来ていない。数分後。もう一度更新する。何も変わらない。(まだ……)何度繰り返しただろう。気づけば午前中が終わっていた。「奥様、食事をお持ちしました」昼食は部屋へ運ばれてきた。「そこへ置いておいて」扉の外で食器がぶつかる微かな音がする。音が止んだ。使用人の足音が遠ざかる。実里はわずかに扉を開き、誰もいないことを確認する。そして、トレーを部屋の中に運ぶ。実里は黙って食べ始める。味は分からない。それでも食べる。父のアドバイスだから。食べられるときに食べる。それが、生き残るための基本なのだから。.トレーを廊下に出して、食後のお茶を飲んでいるとき。スマートフォンが小さく震えた。実里は飛びつくように画面を見る。
二日目の朝。昨日の小火騒ぎのせいで、キッチンはまだ使えなかった。そのため、夕食に続いて朝食もケータリングになった。テーブルへ並べられた箱を見た瞬間、実里は小さく目を細める。箱には見覚えのあるホテルの名前が入っていた。(……ここ)広海と何度も食事へ行ったホテル。記念日には必ず予約してくれたレストランだった。妊娠してからも一度。あのときは、実里が安心して食べられることを一番に考えていた。生ものを避けた料理を出すように。貧血によい食材を。プロなんだから任せようと実里が止めるまで、広海は細かく指示していた。(あの頃なら……)「旦那様が、奥様のためにご用意なさったものです」使用人が静かに頭を下げる。実里は何も言わず、その顔を見つめた。数秒後。使用人が「あ……」という表情を浮かべ、気まずそうに目を伏せる。自分で気づいたのだろう。奥様のために。その言葉は、もう以前とは意味が違うのだ。「そう」実里は小さく笑った。「惰性で注文したのかしら」使用人の肩が震える。「それとも、世間体?」静かな声だった。「例の女とこのホテルに泊まって、そのついでに注文したのかもね」「そんなことありません!」大きな声が返ってきた。実里はゆっくりと彼女を見る。「だ、旦那様は……昨夜も遅くまで会社に……会社の仮眠室で、お休みになったと……」「よく知っているのね」実里の言葉に、彼女の顔色が変わる。「余計なことを申し上げました……申し訳ありません」深く頭を下げる。実里は何も言わなかった。(私のために、と言わなかっただけ合格だわ)この使用人は、これまで使用人の一線を越えることはなかった。
――三日待ってください。高橋誠にそう言われてから、一日目。目を覚ました実里は天井を見つめた。三日。ただ待つだけでは長すぎる。広海に怪しまれないような行動をしなければいけない。そうなると。「さて、暴れるか」いつ中絶させられるか分からない状況で、おとなしくしているほうが不自然だ。それが実里の結論だった。実里はゆっくりと起き上がった。暴れるといっても、これまで暴れたことはない。それに、妊娠中の今はできることは限られている。特に、取っ組み合いのような激しい運動は避けなければならない。ならば。「まずは、あれかな」そう言って、実里はリビングへ向かった。.「おはようございます」使用人が距離を取ったまま頭を下げる。あれから、ずっとこうだ。彼女たちにも事情がある。それを分かっているから、実里は彼女たちを責めない。広海は、実里がそうすることまで見越して、彼女たちを利用しているのだろう。卑怯だと思う。しかし、今はそれを気にしても仕方がない。「奥様?」不思議そうな声を背中に受けながら、実里は棚へ向かった。そこには、広海との写真がいくつも飾られている。旅行。誕生日。結婚記念日。幸せだった時間が並んでいた。(いずれ、ここに……)広海と、顔も知らない女の写真が並ぶのだろうか。込み上げた苛立ちのまま、一番大きな写真立てを持ち上げる。中では、ウェディングドレス姿の実里とタキシード姿の広海が笑っていた。重い。(もっと重ければ、絶対に持ち上げられなかったわよね)――絶対に幸せにする。広海の言葉を思い出す。そして、絶対なんてないと笑いたくなる。







