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第5話 残される

作者: 酔夫人
last update 公開日: 2026-08-02 11:00:50

妊婦健診の日。

本来なら、今日は広海と一緒に病院へ来る約束だった。

「子どもの健診なんだから当たり前だろ」

そう言って次回の予約をきた日から予定を空けてくれていた日だ。

広海から昨日連絡が来たときは【仕事だから行けない】と言ってくると思った。

【どうしても外せない仕事が入った。でも病院には行く。待っていてくれ】

そのメッセージを見たとき、実里は少しだけ驚いた。

(来てくれるとは思わなかった)

驚いたけれど、嬉しかった。

赤ちゃんのことは、ちゃんと大切に思ってくれている。

そう思うと安心する。

(それなら……)

胸の奥が少しだけ痛んだ。

(やっぱり私が何かしたのかな)

赤ちゃんには会いたい。

でも、自分とは一緒にいたくない。

そんな考えが浮かんでしまい、実里は慌てて首を振った。

「考えすぎ」

そう呟いて、お腹を優しく撫でる。

「パパも楽しみにしてるみたい」

自分に言い聞かせるように笑った。

「どのくらい大きくなったかな?」

◇◇◇

病院へ着くと、広海の姿はまだなかった。

仕事がまだ終わらないのか。

受付を済ませ、待合室で一人座る。

時計を見る。

約束の時間を少し過ぎても来ない。

受付で名前を呼ばれた。

(間に合わなかったか)

仕事だから仕方がない。

そう思ったとき。

「悪い、遅くなった」

低い声が聞こえた。

顔を上げると、スーツ姿の広海が立っていた。

急いできたのか。

息が上がっている。

「丁度いいタイミングだよ」

実里の言葉に広海はほっと笑う。

「よかった」

ほんの少しだけ。

昔の広海へ戻った気がした。

.

二人で診察室へ入る。

椅子へ座ると担当医がカルテを確認しながら言った。

「今日は採血があります」

「え?」

実里は思わず聞き返した。

「採血?」

妊婦の健診内容は事前にもらっている。

血液検査の予定なんてなかったはずだ。

「その……必要になったので」

「必要って……」

言いにくそうな先生の様子に実里は不安になる。

「何か悪かったんですか?」

赤ちゃんに何かあったのだろうか。

それとも、自分の体に異常が見つかったのだろうか。

一気に不安が押し寄せる。

「実里、落ち着け」

広海の声に、隣を見る。

広海は驚く様子もなく、静かに座っていた。

「病院がやるって言うなら受ければいい」

あまりにも落ち着いている。

以前の広海なら違った。

——何かあったのか?

——赤ん坊は大丈夫なのか?

——実里は大丈夫なのか?

そうやって、自分より先に医師へ質問を浴びせていたはずだ。

なのに今日は、まるで他人事のように冷静だった。

「広海。一体どうしたの?」

気づけば声が震えていた。

「何が?」

そう言うくせに、視線をそらす。

何がか分かっている反応だ。

「最近ずっと変だよ」

広海は視線を合わせない。

「何もない。仕事が忙しいだけだ」

「でも……」

「とりあえず採血しろ」

命令するような低い声だった。

実里はハッと息を呑む。

広海もバツの悪そうな顔をした。

「病院に迷惑だから」

声は優しくなったが、やはり目は合わせない。

「東條さん……」

医師の声に実里は緊張を緩めた。

診察室の外には次の患者も待っている。

「……すみませんでした」

医師は目に見えて安堵した。

「それでは準備をしますので」

「はい……」

実里は小さく頷くしかなかった。

採血の準備がされ、実里は腕を差し出す。

針が刺さる。

少しだけ痛い。

その間も広海は何も話さなかった。

ただ、じっと実里が採血される様子を見つめている。

食い入るように。

何かを願うように。

(赤ちゃんのことはやっぱり心配なのね)

モヤモヤが晴れたわけではない。

でも、この顔を見たら許してしまった。

.

「それではエコーを見ましょうか」

予定通りの診察になったことに実里はホッとする。

「はい」

医師の声に実里が横になろうとしたとき。

「悪い」

広海は腕時計へ視線を落とす。

「仕事へ戻る」

「え……」

「また連絡する」

それだけ言い残し、広海は実里の返事を待つことなく診察室を出ていった。

扉が閉まる音が響く。

急に部屋が広く感じた。

「あの……」

戸惑う医師に診察を続けてほしいと言う。

画面には、小さな命が映し出された。

前よりもずっと大きくなっていた。

「順調ですね」

その一言だけで涙が出そうになる。

嬉しかった。

突然血液検査と言われた不安が溶けた。

隣を見た。

広海がさっきまでいた場所。

「写真をお渡ししますね」

「……お願いします」

澱のようにそこに沈むモヤモヤ。

それを解消する方法が分からない。

どこかぼんやりした気持ちのまま診察室を出て、

看護師からエコー写真を受け取る。

実里は写真の中の小さな命を見つめた。

「次は……」

小さく微笑む。

「次はパパも一緒に見てくれるかな」

写真の中の赤ちゃんへ語りかける。

返事はない。

それでも、そう信じたかった。

.

病院を出たあと。

実里はエコー写真をスマートフォンで撮影した。

【順調だって】

写真を添えて送信する。

すぐに既読がつく。

実里は立ち止まり、画面を見つめた。

五分。

十分。

三十分。

また返事は来なかった。

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